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部落問題用語解説


このページでは部落問題に関する用語の解説を掲載しています。部落問題学習の参考にしてください。

▶出典
『はじめてみよう!これからの部落問題学習』
((社)ひょうご部落解放・人権研究所編/解放出版社発行)




■あ行


穢多(かわた・長吏)

「穢多(えた)」は、中世から近世の被差別身分の呼称。「えった」ともいう。被差別身分として固定化されたのは、江戸時代以降のこと。「穢多」の称が一般化した後も、関西などでは「かわた」、東日本では「長吏(ちょうり)」などと自称した。
 「穢多」の史料上の初見は、弘安年間(1278~88)の『塵袋(ちりぶくろ)』で、「清目(きよめ)」の異称とする(「清目」は「河原者」の異称)。1444(文安元)年の『下学集』には、「ゑた」の項に「屠児(とじ)也、河原者」とあり、「穢多」は「屠児」「河原者」と同義とする。「屠児」は生類を屠(ほふ)ることを生業とした人々の呼称で「屠者(としゃ)」ともいう。中世において「穢多」とは、掃除や葬送、土木工事、斃牛馬(へいぎゅうば)の処理や皮革業など、「ケガレ」を清める仕事を担っていた「河原者」の異称であった。
 戦国時代になると、皮革業者などが戦国大名に従属するようになっていった。織豊時代の太閤検地では、「穢多」は「かわた」などの名称で把握されることになる。「かわた」とは「皮田・皮多」などとも記され、もとは皮革生産を担う職人や商人のことをさした。
 江戸時代には、身分として固定化されていくに従い、「かわた」ではなく次第に「穢多」の称が一般的になる。「穢多」身分の人々が定住した村を、「穢多村」などと呼び(自称は「かわた村」「役人村」など)、斃牛馬の処理、皮革業、刑吏の下働きや下級警察業務などに従事させた。「穢多」身分を統括した頭を「穢多頭(えたがしら)」と呼び、そのなかでも江戸に居住した「弾左衛門(だんざえもん)」は最も勢力があり、東日本の広範囲の「穢多」を支配した。
 幕末には、「穢多」の称の撤廃を求める嘆願書が各地で提出されている。1871(明治4)年の「解放令」によって、「穢多」の称は廃されたが、現代においても差別語として用いられることがある。


オール・ロマンス事件(オール・ロマンス闘争)

1951年に部落解放京都府連合会が京都市政の差別性を追及し展開した一連の行政闘争およびその契機となった事件のこと。当時「カストリ雑誌」と呼ばれた大衆誌『オール・ロマンス』(51年10月号)は、「特殊部落」と題する短編小説を「曝露小説」と銘打って掲載。実在する被差別部落の位置を特定したうえで、そこへ流入し生活していた在日朝鮮人と部落の人々の姿を描いたもので、動物の内臓料理、暴力団、密造酒、伝染病などをことさら強調して描き、部落を「悪の巣窟」、疫病の蔓延する街として描いた。
 作者が京都市の職員であったことから問題は深刻化。市職員が差別的な意識をもっているということは、そこに京都市行政の差別的な姿勢が反映されているのではないかという追及がなされた。市長は、行政の差別的な姿勢を認め、京都市の同和行政は大きな変化をとげる。
 同年12月に部落解放京都府連合会が打ち出した「吾々は市政といかに闘うか―オール・ロマンス差別糾弾要項」は、差別を「意識(観念)」としてではなく、無関心(無視)や放置という「行為」ととらえ、それが社会全体に差別的な影響を与え広めた構造を明らかにし、その実態を放置している市政のありようを問題にした。さらに「差別は市政の中にある」ことを具体的に示し、その解決を求めた。戦後の部落解放運動の基本的形態である差別行政反対闘争(行政闘争)の端緒をつくったのが、このオール・ロマンス事件(闘争)である。

■か行


解放学級

被差別部落において、小中学校の子どもが集まり、学力を身につけること、部落問題やさまざまな差別問題について学び差別に負けない力をつけることを主な目的として行われてきた学びの場で、保護者、地域、学校などが関わって行われてきた。地域によって、その内容や形、保護者・地域・学校の関わり方、名称もさまざまである。
 たとえば兵庫県では、1963年から「学力補充学級」が県単事業で始まった。背景には、当時の部落の子どもたちが置かれていた劣悪な教育環境の結果としての低学力があり、「子どもに学力を」と願う親たちの思いと運動があった。1969年の同和対策事業特別措置法の成立を受け、1970年には「学力促進学級」と名称が変わり、事業対象地域も一気に拡大している。1974年には「社会的立場の自覚」を掲げた「解放学級」へと発展していった。その後、1982年の地対法、1987年の地対財特法と、同和対策事業に係る法律の改正に伴い、名称なども変化している。2002年の地対財特法終了後も同様である。


改良住宅

主に同和地区内に同地区住民を対象として建てられた公営住宅。
 1965年の同対審答申では「部落が劣悪なる生活環境のおかれている原因は、河川敷、堤防下、崖の上、谷間、低湿地、浜辺といったような大風雨や豪雨によって、たちまち災害を受けるようなことが多いからであり、中には人間の住むところではないといったような地域もみられる。すなわち、このような居住地域については、その実態を調査し、抜本的に改善する対策を樹てる必要が認められる」とし、住宅建築をはじめとする「環境改善に関する対策」が最優先に取り組まれた。
 同和地区の住環境整備は、戦前の1927年、「不良住宅改良法」の制定から始まる。これは、大都市の不良住宅密集地を中心に行われたもので、伝染病や延焼、社会への不満から発生する暴動などを防ぐことを目的に、その周辺の人たちの安全や衛生を守るという視点から制定されたものであった。1960年、同法にかわるものとして「住宅地区改良法」が制定された。これは明確にその地区住民の基本的人権を守る目的で制定され、児童遊園、共同浴場、集会所、共同作業場など、地区住民にとって必要な施設や、道路、公園、広場などの公共施設も含めて、改良事業を推進していくことが定められた。
 改良住宅の供給対象は、住宅地区改良事業の施行により、居住する住宅を失って住宅に困窮する者。借家の場合には借家人が該当する。96年までに同和地区に建設された改良住宅は約6万7600戸。住宅のタイプは、低層、中層、高層の耐火構造のほかに、2階建ての簡易耐火構造がある。改良住宅の管理は公営住宅に準じ、供給当初の世帯が転居した場合は公営住宅として管理される。96年同法の改正により、改良住宅も一般公営住宅と同じく「応能応益家賃」とされ、2002年の特措法切れとともに、段階的に移行していくことになった。


河原者

中世の被差別民の呼称で、「川原者」などとも記される。免税地とされた河原に居住し、掃除や葬送、芸能やその興行、斃牛馬(へいぎゅうば)の処理や皮革の生産、染色業、作庭や井戸掘りなどの土木工事など、賤業とみなされたさまざまな雑業に従事した。『左経記』の「長和5(1016)年1月2日条」には、「河原人」が牛の皮を剥ぎ、牛の腹中から牛黄(ごおう)を取り出したとの記述があり、これが史料上の初見とされている。室町時代になると、こうした雑業に従事するかたわら、幕府や寺社の雑用にも使われ,警護など下級警察業務にも従事させられた。
 室町時代中期頃には、「山水(せんずい)河原者」と呼ばれる庭造りに活躍する者が現れる。なかでも「善阿弥(ぜんあみ)」(1386~1482)は作庭の技術にすぐれ、8代将軍足利義政の目にとまり、生涯にわたってその寵をうけ、将軍御所・諸寺院などの作庭に従事した。『鹿苑日録』の「長享3(1489)年6月5日条」で「天下第一」と評されるなど、当時非常に高い評価を受けていた。子の小四郎、孫の又四郎も庭師として活躍した。
 近世以降においても「河原者」「河原乞食」などといった言葉は賤称語として用いられた。


糾弾

1922(大正11)年に創立された全国水平社から続く部落解放運動の柱であり、差別との闘いの中心的な戦術。
 差別行為の事実関係を確認し、その責任を問うなかで差別問題に対する認識や姿勢を糾すことであり、糾弾は差別への単なる抗議行動ではなく、差別をした人に間違いをさとらせ、部落差別の解決をめざす人間に変わっていくことを求めるもの。


教科書無償運動

現在、義務教育課程の教科書は無償となっているが、無償配布が始まったのは1964年からである。部落解放同盟は1955年の全国大会で「義務教育は無償でなければならない」として、教科書無償要求闘争を行うことを決め、各地で多様に取り組まれたが、無償化の大きなきっかけになったのは、部落解放運動や教職員組合などが1961年から取り組んだ、高知市長浜での運動である。長浜にある被差別部落は半農半漁で、不安定な労働に従事している人が多く、母親たちの多くは失業対策事業(失業者に対して国や地方公共団体が政策的に雇用機会を創出し、その労働収入で再就職までの生活の安定を図る失業者救済事業)で働いていた。それで1日働いて得られる収入は約300円で、毎年3月に準備しなければならない教科書代は小学校約700円、中学校約1200円だった。この他にも教材備品、図書購入費、光熱費、運動場整備費など、多くの負担をしなければならず、「公立ではなくPTA立だ」と言われていた。当時、学校の教師と学習会を行っていた母親たちをはじめ、長浜の部落の人々は、憲法26条に「義務教育は、これを無償とする」とあることを学び、教師や地域の民主団体や部落外の人々にも働きかけて「長浜地区小中学校教科書をタダにする会」を結成(1961年)。「貧しい人に対する福祉」ではなく、「憲法に保障された権利」を掲げ、集会を開き、署名活動をし、多くの団体にも働きかけた。高知市教育委員会とも交渉につぐ交渉を行った。高知市議会も、内閣総理大臣や文部大臣あてに「意見書」を提出。この問題は国会でも取り上げられ、1962年「義務教育諸学校の教科用図書の無償に関する法律」、1963年「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律」が成立した。1964年は小学校1~3年、1965年は1~5年と順次枠を広げ、1969年に小・中学校全体が無償となった。


ケガレ

死や出産、出血、犯罪、自然災害、化学変化を用いた技術などといった、通常の状態に変化をもたらすこと、理解しがたい不思議な力に関係することを「ケガレ」と呼び、忌避することが前近代の社会では広く行われていた。何を「ケガレ」とし、誰がどのように忌避するのかについては、各時代により異なる。「ケガレ」には古くから「穢れ」の字が当てられる。
 平安時代、貴族の間では「浄・穢」の観念から、とくに死・産・血(人の死や出産、月経、肉食など)に触れることを不浄であるし、「ケガレ」とした。「ケガレ」は接触により次々と伝染するとされ、不快なもの、悪しきものとして忌避された。平安時代は貴族社会の内に留まっていたが、鎌倉時代になると武士や民衆の間にも広がっていった。
 中世では、死・産・血といったことだけでなく、地震などの自然災害や日食、化学変化を用いた技術なども「ケガレ」として忌避するようになる。「ケガレ」観念が広がるにつれ、「ケガレ」を清める人たちの必要が増していった。鎌倉時代には、「ケガレ」を清める仕事(例えば、斃牛馬(へいぎゅうば)の処理や葬送など)に従事する人たちを賤視・不浄視する傾向が強まるが、同時に神仏の力を背景とした特別な能力をもった存在として畏怖するようになった。室町時代になると、神仏への畏怖の念が弱まるのにつれて、清める力のあるとされた人たちへの畏怖の念も弱まり、賤視・不浄視が強まっていくことになる。近世においても「ケガレ」観念は人々のあいだで広く共有されていたが、近代になり科学思考・知識が広まることによって、意識されることは少なくなってきている。
 このような「ケガレ」観念は、部落差別・女性差別・障害者差別などの思想的基盤となった。

■さ行


狭山事件

1963年5月1日、埼玉県狭山市で女子高校生が行方不明になり、脅迫状が届けられるという事件がおきた。 警察は身代金を取りに現れた犯人を40人もの警官が張り込みながら、 取り逃すという失態を演じ、女子高校生は遺体となって発見された。 警察への非難が高まり捜査に行き詰まった警察は、付近の被差別部落に見込み捜査を集中し、 何ら証拠のないまま、5月23日、当時24歳だった石川一雄さんを「別件」で逮捕した。 捜査本部は連日「女子高生殺し」で石川さんを追及するが、犯人とする決め手がなく拘留期間を迎える。 保釈決定が出されると、警察は本件で逮捕状を取り、6月17日保釈直後に狭山警察署内で石川さんを再逮捕した。 その後、検察官は弁護士との接見を禁止し、「殺人を認めれば10年で出してやる」などの嘘の約束や脅しにより、 石川さんは虚偽の自白をさせられる。 1964年3月の1審で死刑判決が出て、だまされていたことに気づいた石川さんは東京高裁での控訴審から無実を訴え始める。 唯一の物証であった脅迫状は、当時の石川さんには書けないとする筆跡鑑定書、 殺害方法が違うことを立証する法医学者の鑑定書などが提出されたが、1974年東京高裁は無期懲役の判決を出す。 ただちに上告するが、1977年に最高裁は上告を棄却し、無期懲役判決が確定し石川さんは千葉刑務所に移された。 同年8月、弁護団は再審請求を申し立てたが、事実調べを一切行わないまま1980年2月に棄却した。 ただちに異議申し立てをしたが、1981年3月にやはり事実調べを行うことなく棄却されている。 弁護団は1986年8月、第二次再審請求を東京高裁に申し立て、全ての証拠の開示と事実調べを行うよう求めてきたが、 13年もの年月を費やしながら、1999年7月9日に抜き打ち的に棄却された。 弁護団は異議申し立てを行ったが2002年1月23日に棄却され、現在に至っている。
 狭山事件は、指紋や血痕など物証が無く、自白偏重の裁判といった典型的なえん罪事件だが、 根底にあるのは、被差別部落に対する警察・周辺住民・マスコミの差別性である。 さらに石川さん自身の生い立ちにみられる部落差別の現実、とりわけ教育を受けられず文字を奪われた実態などがある。 えん罪の根底にある部落差別の問題に市民一人ひとりが向き合うことが問われている。 石川さんは31年7ヶ月もの獄中生活を余儀なくされ、94年の再審請求中に「仮出獄」をはたした。 しかし「私の手にかかっている『見えない手錠』を一日も早くはずしたい」と訴え、今も闘い続けている。


識字学級

識字とは「文字が読み書きできること」で、識字率は一般的に初等教育を終えた15歳以上の人口に対する読み書きできる人の割合を指す。就学の機会をもてなかった成人が文字を獲得するための運動を「識字運動」という。ユネスコの世界の教育に関する統計によれば、非識字者は都市より農村、男性より女性など、社会のなかで弱い立場にある人ほど多いことがわかっている。
  被差別部落には、貧困や差別の結果、教育を十分に受けられず文字の読み書きができない人々が多かった。そのため、部落解放運動のなかで「差別によって奪われた文字を奪い返す」識字運動が組織的に取り組まれてきた。始まりは戦後とされるが、戦前にも全国水平社が「水平社教育方針書」を策定し、軍隊入隊前の青年に文字教育を行うなど、組織的に取り組んでいる。
 識字学級は識字運動の活動の中心となってきた場で、識字学校、よみかき教室などの名称もある。1953年から取り組まれた、就職に必要な自動車免許を取るための文字学習会(車友会)もその一つといえる。
 戦後の本格的な展開のきっかけとなったのは、1963年、福岡県行橋市・京都(みやこ)郡の被差別部落で始まった「開拓学校」である。この取り組みは山を越えた旧産炭地、田川の部落にも伝わり、「識字学級」と呼ばれるようになった。1967年には福岡県識字学校経験交流会が開かれ、1969年の部落解放第14回全国婦人集会(現・全国女性集会)では識字の分科会が設置されるなど、全国各地に広がっていった。
 識字は単に文字の読み書きを身に付けるだけではなく、自らの思いや生き方を表現することを通して、社会的立場を自覚し、人間として自らを解放していく営みであるといえる。
 1990年の国際識字年を契機に、部落の識字運動は世界、特にアジアの識字運動との交流を図ってきた。国内でも夜間中学校、日本語よみかき教室などとのネットワークを広げている。近年、部落の識字学級は参加者も多様になり、学習内容も文字にとどまらず多様になっている。


集会所・教育集会所

同和地区の社会教育活動の充実・発展を図ることを目的として市町村によって設置された同和対策集会所で、行政的には文科省が管轄するため「教育集会所」と称されることも多い。30世帯以上200世帯未満の地区を対象とし、施設規模は延べ床面積132㎡以下でかつ指導員などの人件費補助はないといった制約がある。そのため部落のまちづくりでは、集会施設・教育施設としては隣保館や児童館が優先され、集会所は前記の施設の補助施設もしくは小規模部落で前記の施設が設けられない場合の施設として活用された。


白なめし革

「姫路白なめし革」は、千年以上の歴史を持つ兵庫を代表する伝統工法です。 白なめし革は、化学薬品を使わず、塩と菜種油でなめす技法で、甲冑、武具、馬具などが盛んに生産されました。現在は、剣道用の竹刀の柄に使われています。 白なめし革の大きな特徴はその工程にあり、国内産の赤牛の皮に塩と菜種油しか加えず、作業の大半は手と足が頼りです。 その伝統的工法を今も続けているのは姫路の森本正彦さんただ一人です。 後継者不足と正確な文献、資料が乏しいことから姫路市花田町高木地区の人たちが中心となり「姫路白なめし革保存会」が結成されました。「姫路白なめし革保存会」が発行した『姫路白なめし革の歴史─森本正彦の世界』を参考にして白なめし革の製造工程を紹介します。

■た行


統一応募用紙(全国高等学校統一用紙)

新規高卒者が就職試験を受ける際に、求人者側に提出する応募書類。差別選考を排除するため、1970年に近畿高等学校進路指導連絡協議会が「近畿統一応募用紙」を作成。同時に、①社用紙を拒否する、②本籍地を府県名にとどめる、③就職選考日を10月1日以後とすることを労働・教育行政との連携のもとに決定し、71年度から「近畿高等学校統一用紙」一本で応募していく取り組みを進めた。この取り組みは全国的に広がり、73年3月に労働省、5月に文部省が、全国高等学校長協会が定めた「全国高等学校統一用紙」を使用するよう通達を出すにいたり、「統一用紙」の全国化が実現した。
 「統一用紙」を使用するまでは、家族の職業や収入、宗教など、差別につながる調査項目にあふれた「社用紙」が用いられ、また戸籍謄(抄)本の提出義務や身元調査と相まって、行政・企業による差別選考は当然のように行われていた。
  96年、以下の内容で全国改訂。1.履歴書・身上書を「履歴書」とする。2.「男・女」欄を「性別」欄に。3.「本籍」欄を削除。4.保護者に係る「本人との続柄」欄および「年齢」欄を削除。5.「履歴」欄を「学歴・職歴」欄とし、高等学校入学から記入する方式に。6.「家族」欄を削除。7.規格をA4版に。また、調査票については、「行動及び性格の記録」欄および「備考」欄を合わせて「本人の長所・推薦事由等」欄とするなどと改訂された。


同和加配教員

同和地区の子どもが通う保育所、小学校、中学校、高等学校に対して、教育保障上で特別な配慮を必要とする場合に、保育士や教職員を定数に加えて配置すること。なお、公立校における同和加配は、同和対策事業が終了した2001年度末に終了。2002年度からは、その他の加配(不登校加配、いじめ加配、問題行動加配)と統合され「児童生徒支援加配」となった。


同和向公営住宅(同和住宅)

同和地区に居住する同和関係世帯を対象とする特定目的公営住宅。一般に同和住宅というときには、改良住宅でない同和関係者向け公営住宅を指すことが多い。地区内で敷地が確保できない場合は、地区の外に建設される場合もある。1961年から建設が始まり、71年に正式に公営住宅と位置づけられた。しかし、87年に地対法の失効、地対財特法の制定にともない、同和向公営住宅の新規供給は廃止された。


同和対策法

1961年、総理府(現・内閣府)の付属機関として設置された同和対策審議会は、同和問題を解決するための施策に関する総理大臣の諮問に対して、65年に答申を出した(同対審答申)。この答申のなかで、特に緊急を要する課題として特別措置法の制定など6項目が掲げられた。政府はこれに基づき、法案を国会に提出し、1969年に同和対策事業特別措置法が成立した。同対法は10年間の時限立法であったが3年間延長され、その後、新たな法律が制定された。被差別部落の環境改善や差別の解消を目的とした一連の法律を同和対策法と総称する。最後の同和対策法が失効する2002年度末までの33年間にわたって、主に住環境整備(生活道路の設置、河川の堤防の改修)、公営住宅や社会福祉施設(保育所、高齢者施設、隣保館)の建設、雇用の創出、奨学金などの特別対策事業が行われた。
 同和対策法によって被差別部落内の住環境、生活水準は大きく改善されたが、「部落だけが優遇されている」といった、いわゆる「逆差別」論を生み出すことにもなった。
<法律の変遷>
1969年度〜1978年度「同和対策事業特別措置法」(略:同対法/10年間の時限立法)
1979年度〜1981年度  同法一部改正3年間の延長
1982年度〜1986年度「地域改善対策事業特別措置法」(略:地対法/5ヵ年の時限法)
1987年度〜1991年度「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」(略:地対財特法/5ヵ年の時限法)
1992年度〜1997年度  同法一部改正延長(5年間延長)
1998年度〜2002年度  同法一部改正延長(5年間延長)

■は行


非人

中世の「非人」は、「穢多」「河原者」「宿」「坂ノ者」「癩者」「乞食」など、多様な被差別民の総称。
 近世の「非人」は、城下町に流入してきた窮民などを中核として形成された被差別身分。呼称・役儀・生業などに、微妙な地域差がある。
 「非人」対策は、為政者にとっては城下町経営の大きな課題であり、「非人頭」に「非人」集団を統括させた。江戸では1608(慶長13)年に、車善七が町奉行によって「非人頭」に任命されている。大坂では「非人頭」を「長吏」、京都では「悲田院年寄」「与次郎」などと称した。「非人頭」は、城下町の「非人」を狩り込み、管理下においた。頭のもとに組織化された「非人」を「抱(かかえ)非人」、組織に組み込まれていない「非人」を「野非人」と称する。何らかの理由で他の身分から「非人」となった者は、一定の条件を満たせば元の身分に戻ることができたが、両親が「非人」の者は「非人素性の者」と呼ばれ、他の身分に移ることはできなかった。
 江戸には、常時5000人前後の「抱非人」がおり、堀の不浄物処理や清掃、牢番や処刑の下役などの役儀を負担し、雑芸能や雪踏直し、古木拾いなどを生業としていた。1721(享保6)年以降、東日本では「非人」は「穢多頭」の「弾左衛門」支配下となる。近世中期以降、斬髪(ざんばつ)や入れ墨など、非人に対する風俗規制が強化された。
 1871(明治4)年の「解放令」によって、「非人」の称は廃され、集住地の多くは解体されたが、一部は被差別部落として残っている。


兵庫県水平社

兵庫県水平社が正式に創立された日は厳密にはわからないが、『神戸又新日報』は1922年11月26日に、新川地区にある専称寺で神戸水平社創立総会がおこなわれたと報じている。創立当時の水平社の組織は、今日考えるほど厳格なものではないため、兵庫の中心である神戸で、しかも県内で初めて創立された水平社は、県の内外から兵庫県水平社の創立と見られたと考えられる。創立総会には500名が参集し、遠く三重県や奈良県からも参加者があり、京都の本部からも西光万吉(奈良)、駒井喜作(奈良)、泉野利喜蔵(大阪)、栗須七郎(和歌山)らが参加している。 創立総会は、「水平社宣言」の朗読後開会され、弁士たちは熱弁を振るい、後に兵庫県水平社の委員長になる前田平一も「待ちかねた日がやって来た。いまこそ自らの手で解放へ立ち上がるときが来たのだ」と、壇上から叫んだ。午後6時から始まった総会は、午後11時に「穢多万歳を高唱し」散会した。 この総会後、12月に住吉水平社、翌1923年4月に姫路の高木水平社、5月に神戸の番町水平社、加古郡の双子水平社など次々と創立した。1923年6月に県水平社代表委員会が神戸市番町の金楽寺で開かれ、7月には県水平社協議会が開催され本部の設置が協議され、初代の委員長に長田調五郎が選出された。ようやく県内水平社の組織が整えられていった。 県内各地の水平社は、頻発する差別事件に対して、警察の妨害にもかかわらず、徹底的糾弾で闘い抜いた。さらに宣伝演説会を開き、未組織の部落にも働きかけた。水平社運動に反対する部落の有力者の妨害、警察官による弾圧で演説が中止に追い込まれることもしばしばあった。


部落解放運動

部落差別による人権侵害に対して抵抗し、基本的人権の回復・確立を求める運動。
 1890年代に被差別部落の有力者や官憲などによって、生活や環境の改善を求める部落改善運動が起こったが、これは差別の原因を部落に求めるものであった。その後、1910年代には社会の側にも一定の反省を求める融和運動へと進んでいった。
 これに対して、部落民自身の団結と決起により、差別を徹底糾弾することで部落の解放を目指す、全国水平社が1922年に創立された。全国水平社は第二次世界大戦中に消滅したが、敗戦後の1946年、全国部落代表者会議が開催され、松本治一郎(1887~1966)を初代委員長として部落解放全国委員会が発足。1955年から現在の「部落解放同盟」に改称された。
 その後、主流派の社会党系同盟員と共産党系同盟員との間で同対審答申の評価や糾弾闘争の在り方をめぐって意見が対立。共産党系同盟員は全国部落解放運動連合会(全解連、現:全国地域人権運動総連合)という別組織を結成した。
 部落解放同盟は、自主的・大衆的な運動団体として、現在38都府県2200支部で構成されている。部落の環境改善や部落大衆の生活擁護、仕事保障、教育の機会均等を求める運動だけでなく、1963年に埼玉県狭山市でおきた「狭山事件」で部落への予断と偏見による見込み捜査で犯人とされた石川一雄さんを支援する闘いを推進してきた。さらには障害者、在日韓国・朝鮮人など被差別マイノリティとの連帯を追求。また1988年には国際人権NGO、反差別国際運動(略称:IMADR)を結成するなど「世界の水平運動」をスローガンに、全世界の平等を求めて活動を続けている。
 なお、現在、日本政府が交渉対象団体として認めているのは、部落解放同盟、全国地域人権運動総連合、自由同和会の3団体である。


部落差別解消推進法

2016年12月16日に公布、施行された新法で正式名称は「部落差別の解消の推進に関する法律」。
 2016年5月開会の第190通常国会で、自民、公明、民進3党の議員によって共同提案されたもの。 「人権侵害に対する救済」や「差別行為に対する規制」もない理念法(全6条)ではあるが、日本の憲政史上はじめて「部落差別」という用語が使われた恒久法であり、「現在もなお部落差別が存在するとともに、情報化の進展に伴って部落差別に関する状況の変化が生じていることを踏まえ、全ての国民に基本的人権の享有を保障する日本国憲法の理念にのっとり、部落差別は許されないものであるとの認識の下にこれを解消することが重要な課題であることに鑑み、部落差別の解消に関し、基本理念を定め、並びに国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに、相談体制の充実等について定めることにより、部落差別の解消を推進し、もって部落差別のない社会を実現することを目的とする」と第1条に明記されるとともに、国や地方自治体に相談体制の充実(第4条)や啓発・教育の推進(第5条)、実態調査(第6条)などを求めている。 国が現在においても部落差別が存在していることを認め、部落差別は許されないものであるとの認識を示したことの意義は大きい。

■ま行


松方デフレ

「松方デフレ」とは、西南戦争後のインフレーションを解消するため、大蔵卿(現在の財務大臣)の松方正義が行った財政政策により発生した、1880年代のデフレーションのこと。西南戦争(1877)の戦費を調達するため、大量の不換紙幣(金貨との交換義務がない紙幣)を発行したため、貨幣の価値が下落し深刻なインフレになった。1881(明治14)年に大蔵卿に就任した松方はインフレを解消するため、増税、官営事業の払い下げ、歳出削減、紙幣の回収などの政策を行った。その結果、深刻なデフレとなり、貧富の差が拡大した。多くの農民が没落し、自作農から小作農に転落する者や、困窮して都市に流入する者が多くあらわれた。財閥や地主が資本を蓄積し、産業化が進んだ。  
 江戸時代、被差別部落は格別貧しいというわけではなかったが、近代以降、一般地域よりも貧しくなっていったとされる。その原因として、「解放令」によって斃牛馬(へいぎゅうば)処理権など職業上の特権を失ったことで衰退が始まっていたため、一般地域よりも松方デフレの打撃を大きく受けることになったといった説明がなされてきた。しかし、1880年代の松方デフレ以降も豊かな部落が存在したこと、松方デフレによって貧困化が進んだ部落でも人々が経済的打撃を等しく受けたわけではなく、部落内において二極分解が進んだこと、農村部と都市部で状況が異なったことなどが知られており、部落全体が貧困化する時期や過程について、松方デフレを強調しない論も存在する。

■ら行


隣保館

隣保館とは、社会福祉法で規定された第2種社会福祉事業である「隣保事業」を専門に実施する福祉施設。設置運営の主体は主に「市町村」で、全国に約850館設置されている。 現在、「隣保館」と称する施設は2割弱で、「総合会館」「人権○○」など多様な名称がある(2016年、全隣協加盟施設調べ)。
  日本の隣保事業は、19世紀後半イギリスで誕生したセツルメント「トインビーホール」の影響を受け、明治後期にスラム地区対策として民間の社会事業家によってはじまる。セツルメントは「隣保事業」「隣保館」と和訳された。
  部落の隣保館は、大正期以降の部落問題への社会的関心の高まりと、水平社運動の勃興のなかで、感化救済・治安対策的活動の一環として公営設置されるようになったが、多くの隣保館は戦後1950年代以降に設置された。69年の同和対策事業特別措置法の制定によって、隣保館の設置・運営は同和対策事業として位置づけられ、全国で隣保館の建設が進み、多いときには全国で970館にもなった。
  97年度より隣保館は地対財特法対象施設(特別対策)から社会福祉事業法対象施設(一般対策)へと位置づけが変わり、「隣保館設置運営要綱」の目的にある「同和問題解決」の記述が「人権・同和問題の解決」へと変更。隣保館は「住民交流の拠点となる開かれたコミュニティー・センター」としての総合的事業を、周辺地域を含めて展開していく。2002年に「厚労事務次官通知」で「同和」という名称が完全に削除され「人権問題、福祉問題の解決」を目的とするが、同年3月に出された「人権教育・啓発に関する基本計画」で、「同和問題」の章に隣保館が位置づけられており、隣保館は部落問題解決のための拠点施設であるという位置づけは変わっていない。主な事業は、①社会調査および研究事業、②相談事業、③地域福祉事業、④啓発および広報活動事業、⑤地域交流事業、⑥周辺地域巡回事業、⑦地域福祉事業。また、特別事業として「隣保館デイサービス事業」「地域交流促進事業」「継続的相談援助事業」がある。


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