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〒650-0003 神戸市中央区山本通4-22-25兵庫人権会館2階

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2015年度「人権歴史マップ」連続セミナー

>>第1回:芸能と差別

■講師:山路興造さん(世界人権問題研究センター研究第2部長)
■日時:2015年5月9日(土)

【要旨のまとめ】
 芸能者に対する社会のまなざしは、ここ三〇、四〇年で大きく変化した。古くからの芸能者は現在のタレントのような憧れの存在ではなく、一般家庭で子どもが芸能者になりたいといえば親族一同が激しく反対するようなものであった。それは芸能者の身分の問題に起因している。
 近代以前、農民たちが日常の労働から解放されるのは、正月、盆、祭りや田植えなどのハレの日だけだった。また都市には芝居小屋や遊郭など日常的にハレの場が存在した。これらは日常とは異なる別世界で、身分や常識が通用しない時間や空間であった。そしてその芝居小屋や遊郭の場で演じられたのが芸能で、その芸能を演じた人が芸能者である。彼らは日常の論理に適合しない特殊な人々と考えられ差別の対象となっていった。
 かつては歌舞伎役者が市中を往来するときは編笠をかぶらなければならなかった。江戸時代末期の一八六六(慶応二)年にも、幕府は歌舞伎役者を奉行所に呼び出して、編笠着用を厳重に申し付けているが、近代になると文明開化を通じて芝居の位置づけが一変する。一八七六年(明治九)年には岩倉具視邸で天皇が四座の役者による猿楽を初めて観た。また、一八七八(明治一一)年の新富座新装開場式には洋服を着用した政府高官が出席した。ただ、一般民衆の芸能者に対する潜在的賤視はその後も長く存在した。
 日本で最初の女優といわれている川上貞奴は、江戸時代から続く芳町という遊郭の花街の芸者であった。一八九九(明治三二)年、夫の川上音二郎がアメリカで行なう演劇興行に同行していたが、女形の出演が拒否されたことをきっかけに、貞奴が女優として出るようになった。当時の日本で女優が一般民衆に受け入れられたのは、貞奴が芳町の芸者だったからだと考えられる。
 一九〇八(明治四一)年、貞奴を所長として帝国女優養成所が開設され、一般応募で女優を養成した。しかし当時でも芸能者は蔑まされた職業だったため、第一期生の森律子は養成所に入ったことで高等女学校の卒業名簿から除名されたり、世間のバッシングで弟が自殺するなどした。
 それがテレビの出現によって大きく変わった。それまで日常と区別された非日常の世界で演じられてきた芸能が、日常世界に入り込むことになった。芸能は非日常の世界であるという基本が根本から変わってしまったのだ。それは同時に日常世界の人々とは区別されてきた芸能者が差別の対象ではなくなったことを意味した。


>>第2回:播州『解放令』反対一揆

■講師:上杉聰さん(大阪市立大学人権問題研究センター特別研究員)
■日時:2015年7月4日(土)


>>第3回:大災害と在日コリアン

■講師:高祐二さん(兵庫朝鮮関係研究会)
■日時:2015年9月5日(土)

【要旨のまとめ】
関東大震災(一九二三年)発生直後の混乱の中で、「朝鮮人が放火している」「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んでいる」といったデマが蔓延した。そして朝鮮人暴動のデマが軍や警察によって発信、拡散され、自警団によって約六〇〇〇人の朝鮮人が虐殺された。後の裁判で、四六名を殺害した被告は「殺すのは国のため」「手柄だと思っていた」と証言した。そのような危険な状況の中でも、救援活動を行った朝鮮人がいたという記録が残っている。
兵庫県豊岡市を中心として発生した北但大震災(一九二五年)では火災が相次いだ。当時、丸山川の改修工事に従事していた多くの朝鮮人が、家の下敷きになった町民たちを猛火の中から救出するなどして、県知事から表彰を受けた。
京丹後市を中心に起こった北丹後大震災(一九二七年)では、関東大震災のような虐殺を危惧して、尼崎の朝鮮人団体が付近の朝鮮人に対して自宅待機を促したという記録がある。
大きな被害をもたらした室戸台風(一九三四年)では、朝鮮日報社が救護班を組織して被災した人たちに食料を配給したり、朝鮮人の青年が濁流の中二〇数名を救出した。
阪神大水害(一九三八年)発生時、神戸市内には約二万人の朝鮮人が暮らしていた。彼らも多くの被害を受けたが、朝鮮人奉仕団が土砂の搬出など復旧活動に参加したり、人命救助で表彰を受けた朝鮮人もいた。しかし警察では朝鮮人を要警戒人物として治安管理の対象にしていたという。その一方で朝鮮人の救援に尽力し殉職した日本人巡査もいた。民族をこえた助け合いの記録が残っている。
阪神・淡路大震災(一九九五年)では、約一四〇名の在日韓国・朝鮮人が死亡した。この地震でも「東南アジア系の外国人が商店から品物を略奪している」などデマが発生した。デマを聞いて身構えてしまう自分がいて、情報に振り回される怖さを感じた。災害時は他者に対する不信感が増大するため、誰もが関東大震災のときのような加害者になる可能性がある。
在日韓国・朝鮮人の多くが従事していたケミカルシューズ産業は、地震による建物の倒壊や火災で工場が被害を受け、その大半が操業不能となった。震災で大きな打撃を受けたことに加えて、安価な海外製品の台頭などにより倒産が相次いだ。街並みは整備されたが、商店街などはシャッター通りとなっている。
災害時に人を救うのは人であり、民族や国籍をこえた助け合いが必要である。そのためには日ごろからの相互理解が大切だ。災害時に助け合ってきた記録は、今後の災害に備えになるだろう。


>>第4回:淡路人形浄瑠璃見学ツアー≪フィールドワーク≫

■講師:太田恭治さん(アトリエ西濱主宰・花園大学非常勤講師)
■日時:2015年11月28日(土)

【要旨のまとめ】
室町期には門付芸、大道芸が多く行われた。なかでも猿回し、人形芝居、万歳は庇護された。
淡路で人形芝居がいつ始まったのかはよく分からないが、一六世紀末には人形座が存在していた。一六一五年に淡路島は徳島藩蜂須賀家の所領となり、以後、淡路の人形芝居は蜂須賀家の保護を受けることになる。江戸時代、徳島でも人形芝居が行われているが、どちらの人形もほぼ同じである。人形の頭(かしら)をつくる人は阿波にいた。阿波人形浄瑠璃の人形は頭が大きいのが特徴で、阿波でつくった頭を全国に持って行き、芸を伝えたという記録もある。
鳥取県の被差別部落に円通寺人形芝居がある。江戸時代には二一の座があったが、戦後被差別部落の座だけが残った。この部落の人は土地を持たなかったので、生業として行われた人形芝居だけが生き残ったのだろう。現在は県指定無形民俗文化財に指定されている。ここでは淡路から人形芝居が来たという伝説がある。
芸能と差別という問題をどう考えるかというと、まず江戸の歌舞伎役者は賤民ではない。大阪の文楽も被差別民の枠に入らない。彼らは元町人や元百姓であった。淡路の人形芝居も基本的には百姓身分なのだ。
徳島には「阿波木偶箱(でこはこ)まわし保存会」がある。徳島藩の「掃除」系被差別民によって担われた箱廻しを伝承している。箱廻しは人形を木箱に入れて家々を回る門付け芸である。現在、保存会では唯一の伝承者から正月の門付けを受け継いで、徳島から香川や愛媛まで九九〇軒をこえる家々をまわっている。
 現在はもう残っていないが、このような芸もあった。徳島の掃除がある家に婚礼の前の晩に呼ばれる。そして娘さんが持っていく布団に寝て、朝起きて食事をいただき出ていく。これで布団にある穢れを吸い取っていくそうだ。掃除はこの日以外その家には上がれない。つまり芸能に携わった人々は世間の穢れを背負って持っていく役割を果たしたのではないだろうか。

■人形浄瑠璃の観劇
午前中は淡路人形座による人形浄瑠璃を観劇した。演目は「傾城阿波の鳴門 順礼歌の段」。公園終演後はバックステージツアーに参加し、座員の方の案内で普段見ることのできない舞台裏を見学したり、人形の説明を受けた。




>>第5回:女人禁制

■講師:源 淳子さん(関西大学人権問題研究室委託研究員)
■日時:2016年1月23日(土)

【要旨のまとめ】
女人禁制とは、ある一定の領域に女性を入れないことをいう。女性が入れない領域は「浄なる領域」であるとされる。
神道において重視された儀礼の一つである禊祓は、罪や穢れを払うことをいう。宮廷では穢れを忌みして排除しなければならないと考えられるようになっていった。これは天皇の権威を強化する役割を果たす。平安中期の宮廷の制度や年中行事を記した『延喜式』においては、人間や動物の「死」や女性の「月経」「出産」が穢れとされ、それぞれ期限が決められて宮廷から排除された。
平安仏教では女人五障や三従の身の考え方とともに、月経や出産の期間だけでなく、女はいつも穢れているので、山の一定の領域に入れないことが決められた。比叡山や高野山は女人禁制とされ、女性の立入りが禁じられた。
神道や仏教の影響を受けた修験道には、女性は穢れた存在であるという考えが取り入れられた。激しい修行を行う山は浄なる領域とされ、女性は排除された。
そして「穢れ」の考え方は民衆へ広がり、「穢れ」に触れると感染するという「触穢思想」が広がった。女性は「月経」の期間七日間、「出産」の期間一か月は穢れているので宮参りができないという習慣や、「死」に対する「穢れ」としてお葬式に行った後に穢れを祓うための清め塩などが行われた。また、女性の出産が母屋とは別の産小屋で行われるようになるなど、触穢思想は習俗として定着していった。
修験道の開祖、役行者によって開かれた奈良県の大峰山は、現在も女人禁制を続けている。その理由は、女人禁制が一三〇〇年の伝統であること、男性だけの修行の場を残したいということ、地元の女性は女人禁制の伝統を守ってほしいと言っているからなどである。
しかし伝統であるはずの女人禁制の区域は、時代とともに変化している。従来、女性は洞川にあった龍泉寺に入れなかったが、檀家の女性たちが行事のときにお寺に行けないと不便だということで一九六〇年に開放された。また、観光バスのガイドが女性であることで、一九七〇年には結界門が先へ伸ばされた。
文化・伝統をどうのように考えるのか、性差別をなくすためにどうすればいいのか、今も残る女人禁制をどのように解放していくのかということを問題提起したい。

>>第6回:皮革に学ぶ部落問題≪フィールドワーク≫

■講師:柏葉 嘉徳さん(皮革研究家)
■日時:2016年3月19日(土)

【当日の流れ】
柏葉嘉徳さんの案内で皮革工場の見学をし、地区内のフィールドワークを行った。その後、柏葉さんの講義を受け、牛の原皮を脱毛し、裏面を削る鋤の作業を体験した。

【要旨のまとめ】
姫路市西御着地区の皮革産業は、明治三〇年頃からはじまった。革は軍隊でなくてはならないものであるため、戦争とともに需要が拡大し、西御着の皮革産業も大きく発展した。最盛期には約七〇軒ほどの工場があったが、近年、皮革の輸入自由化やバブル崩壊、若者離れによる後継者の不足や高齢化などの理由で廃業がすすみ、現在では二〇軒ほどとなっている。
講師の柏葉嘉徳さんは、父親の代から皮革業を生業にしてきたが、一〇年ほど前に工場を閉鎖した。その後、被差別部落が担ってきた皮革の歴史や文化を伝えるため、工場跡を利用して講演やワークショップを行っている。また、皮革の歴史を知ってもらうために、柏葉さんら有志によって、西御着総合センターに皮革資料室が開設された。
毛スキ体験では、糠につけておいた牛皮をかまぼこ台と呼ばれる台にのせて、刃物でこすって脱毛をした。力が弱いとうまく脱毛できず、反対に力を入れすぎると皮に傷がつくため、力加減が難しかったが、参加者たちは柏葉さんにアドバイスをもらいながら脱毛と裏面を削る作業を行った。

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