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〒650-0003 神戸市中央区山本通4-22-25兵庫人権会館2階

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2014年度「人権歴史マップ」連続セミナー

>>第1回:賀川ハル

■講師:三原容子さん(『賀川ハル史料集』編者/庄内地域史研究所所長)
■日時:2014年5月17日(土)

【要旨のまとめ】
 賀川ハルは一八八八(明治二一)年、横須賀で生まれる。経済的な理由で進学を断念、高等小学校卒業後は一四歳で、東京へ女中奉公に出された。一六歳のとき、福音印刷に勤める父の転勤で神戸に移り、同社に製本女工として就職する。そこで讃美歌指導に訪れた賀川豊彦と出会う。豊彦に尊敬の念を抱いたハルは、貧民窟と言われる新川の伝道所で豊彦を手伝うようになり結婚。新婚気分とはかけ離れたすさまじい結婚生活だったが、どんな時もいくつになっても惚れあい続けた二人だった。
 ハルの魅力として、一つ目に成長力が挙げられる。女性の役割として夫を支え子どもを産み育てることを期待された時代に、ハルはとても恵まれた環境にいた。ともに活動する中で、豊彦はハルに勉強を教えてくれたし、豊彦の留学中には女子神学校で学ぶ機会も与えられた。ハルの元にやってくる悩める人々への対応もハルを成長させた。二つ目に生活感である。新川での生活を続けながら、「覚醒婦人協会」(一九二一年設立)の中心的人物として、悲惨な状況に置かれた女工や娼妓たちの解放を訴えた。他の知識階層メンバーとは異なり、女中奉公と女工生活を経験してきたハルの話は多くの人の心に響いた。

■フィールドワーク「賀川記念館見学」
 午前中は、賀川記念館を見学するフィールドワークを開催。語り部の方から賀川豊彦の業績や資料の説明を受け、併設された『天国屋カフェ』で昼食をとった。賀川豊彦が貧しい人々に栄養のある食事を食べてほしいとの願いから開いた食堂『一膳飯天国屋』をモデルに、「生きづらさ」を抱える人々の居場所として開設されている。


>>第2回:有馬温泉の「癩」者と夙

■講師:吉田栄治郎さん(天理大学非常勤講師)
■日時:2014年7月5日(土)

【要旨のまとめ】
 夙(しゅく)とは、江戸時代に畿内とその周辺国に存在した被差別民を言い、その起源は平安時代の非人宿である。「癩(らい)」罹患者や貧困のため浮浪していた人たちは非人と呼ばれ、寺院の庇護のもと食料や衣服、住居を与えられ、そこに非人宿が形成された。非人宿は、非人の世話をする人々(長吏と呼ばれた)やその家族、「癩」に罹患していない非人、「癩」罹患者で構成されていた。
 戦国時代になると、長吏や「癩」罹患者以外の非人は賤民視されること嫌い、「癩」罹患者の世話から離れようとする。戦国時代の終わり頃から「癩」を連想する〝宿〟は、〝夙〟という字に変わっていった。また同じころ、下級公家五条家に接近して「家系之来由」という、天皇の殉死者を救うための埴輪をつくった者の末裔だという由緒書きを、幾内及び周辺国の多くの夙が入手した。この「家系之来由」を掲げて、江戸時代後半から一八六九(明治二)年まで、夙によって差別に抵抗する運動が展開されたが、夙の現状として、婚姻面などで今もなお厳しい差別がある。
 有馬温泉と「癩」との関わりについては、「温泉山住僧薬能記」に行基が「癩」罹患者の介抱をすると薬師如来に変化したという物語がある。このほか「有馬温泉小鑑」には、洪水によって荒廃した有馬温泉を、大和国吉野の仁西上人が再興したが、このとき帯同した「非人のやうなもの」が「間(ま)の銭(ぜに)」をもらって、温泉や街中を掃除していたことが記録されている。
 有馬温泉は「癩」には効能がないと言われていたにも関わらず「癩」罹患者が有馬温泉に住むようになったのは、時衆との関係が考えられる。時衆は鎌倉時代後期に興った宗派の一つで、江戸時代に時宗となるが、その開祖である一遍上人の活動を描いた「一遍聖絵」には、一遍上人や時衆の周りに、白布で顔を覆い柿色の衣をまとった非人たちが描かれている。つまり熊野信仰をもつ仁西上人を時衆とみれば、「癩」罹患者が仁西上人とともに有馬に来たという由来があることにも通じる。


>>第3回:えんぴつの家―障害者と地域でともに生きる

■講師:松村敏明さん(社会福祉法人えんぴつの家理事長)
■日時:2014年9月6日(土)

【要旨のまとめ】
 私が最初に出会った障害者は、妻の弟だった。彼は重い知的障害があった。障害者の親たちの会合で、妹が知的障害者である男性と出会った。「集まりに来たらほっとする」という彼の言葉から、「神戸・心身障害者をもつ兄弟姉妹の会」をつくった。
 中学校で障害児学級の担任をしていたとき、クラスの知的障害をもつ子どもの家に家庭訪問に行った。彼は小学校のとき、障害児学級のある校区外の学校に通っていたので、近所に友だちができず、いじめられていたことがわかった。障害をもった子は、地域で色んな人とつながっていかなければ生きられないということを教えられた。
 子ども一人ひとりと向き合って、それぞれの子どもに合う教育をするということが大切だと思う。障害があってもなくても、いいところも悪いところもあるのだから、障害がある子だけが別のところで授業を受けるのではなく、共に学んで生きていくことが一番大事なのだと気づいた。
 学校を卒業した後に障害者が集える場をつくりたいという思いがあり、募金運動でお金を集めて、えんぴつの家をつくった。えんぴつの家という名前には、永久に腐らないえんぴつの芯を折れないように白い木で包んで支える、それが共に生きる場なのだという意味がこめられている。
 阪神・淡路大震災のときは、在宅障害者の安否確認や生活支援のために、バイクで神戸市内を走りまわった。これまで色んな障害者とつながりがあったからこそ、安否確認ができた。このつながりをもっと深く、広くしなければ、障害者が地域で生きることはできないと痛感した。そこで、小学校区単位で地域に障害者の拠点をつくるというとりくみを長田区で始めた。現在、区内には障害者の作業所やグループホームなどがたくさんあり、顔の見える関係でつながったネットワークができている。
 二〇一三年に障害者自立支援法にかわって、障害者総合支援法が施行された。国連の障害者権利条約も締結されて、障害者がこの町で一緒に暮らせるように配慮をしなければ、それは差別になるという内容が盛り込まれた。実際にこれらの法律や条約を活かすためには、私たちが地域でしっかりとした闘いを組まなければならないのだと思う。


>>第4回:神戸の食肉産業と被差別部落―明治・大正期の屠畜業を中心に―

■講師:本郷浩二さん(ひょうご部落解放・人権研究所理事)
■日時:2014年11月1日(土)

【要旨のまとめ】
 神戸において屠畜業が展開される起点となったのは、神戸開港によって居留地に来た外国人の食肉需要だった。最初の屠畜場は外国人によって設置されるが、日本人経営のものとしては、一八七一年に日本の商社が集まって設立した鳥獣売込商社の屠畜が初めとなる。この屠畜場の設置を許可されたのは、鳥獣売込商社を構成する宇治野組であった。この宇治野組には、皮多村である宇治野村風呂ヶ谷の人たちが参加したと考えられている。江戸時代に斃牛馬の処理に携わっていた皮多身分の人たちは優れた屠畜の技術を持っていたため、新たな産業である屠畜業に参入したり、技術をもった労働者として動員されたと考えられる。
 日本人が経営する屠畜場は増えていったが、一八八四年に新生田川の東岸へ移転させられることとなった。それに伴って屠畜関係者も移転し、屠畜場を核とした新川地区が形成された。この新川地区は被差別部落出身者が住むようになったことにより、被差別部落としてみなされるようになった。その後、複数あった屠畜場は神戸屠畜株式会社の屠畜場に統廃合され、新川地区における屠畜業は全盛期を迎えた。しかし、一九〇二年に株式会社神戸家畜市場が兵庫に設立されたことによって、新川地区の屠畜業は縮小を余儀なくされる。さらに一九〇六年の屠場法の制定により、その三年後に新川地区の屠畜場は閉鎖した。
 新川地区では、屠畜場を中心とした食肉産業が就業機会を作り出していて、それが地域の重要な生活基盤として機能していた。しかし、屠畜場の廃場による関係者の移転は、地域の就業機会を低下させ困窮化を招いた。
 明治・大正期には、牛や豚の内臓を食べる習慣は一般的ではなかった。しかし、新鮮で安価な内臓を手に入れることができた新川地区では内臓料理の食文化が形成された。このような食文化に対する偏見が、部落民や屠畜業への差別を助長することになった。屠畜業に従事した人たちにとって、差別は身近な問題であった。彼らは屠畜を行うことについて、自らマイナスの価値づけを行っていたため、水平社宣言の「ケモノの皮剥ぐ代償に、ケモノの心臓を裂く代償に、部落民という嘲笑の唾を吐かれた」という一節が彼らの心を捉えたのだろう。新川地区に兵庫県下で最初の水平社が創立された背景には、屠畜業とそれへの差別があったと言える。食肉と差別の関係についての考察は、今後の部落史の課題である。

■ホルモン試食会
 セミナー終了後、ホルモン試食会を開催した。一一種類の部位を調理し、ホルモン鍋とホルモン炒めとして食した。詳細は「ひょうご部落解放一五四号 なかのもん食がたり」で紹介している。

>>第5回:『破戒』の市村代議士のモデル・立川雲平

■講師:朝治武さん(大阪人権博物館館長)
■日時:2015年1月24日(土)

【要旨のまとめ】
 全国水平社宣言にある「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」は、自主的で組織的な部落解放運動を支える部落民意識ともいえる思想である。この原点の一つが、島崎藤村が『破戒』で表現した「我は穢多なり」という思想だ。それが宣言に辿り着くまでの道筋を『破戒』以前の中江兆民、前田三遊、三好伊平次から考えてみる。
 中江兆民は自身を部落民に擬して議論を巻き起こした。部落差別の告発という意味で大きな意義があったが、部落民自身が名乗りによって主体形成し差別に対抗するという問題意識はまだなかった。前田三遊は部落民衆が部落民を名乗って全国的な組織をつくることを促し「近代身分制」に対抗することを期待した。三好伊平次は、前田三遊に影響を受け一九〇二年に備作平民会をつくった。これは部落改善を目的としたものだが、部落差別について社会にも反省を求めるという融和運動へつながる論理を打ち出した。
 『破戒』が出された一九〇六年は、部落改善運動を通じて、現実的存在である部落民衆が理念的存在である部落民として自ら主体形成しようとする時期と重なっていた。当時は、部落の問題点を自ら克服して差別をなくそうとする部落改善運動が主流だったが、差別をなくすためには社会のあり方や人々の意識を変えることが必要である。改善運動の限界、矛盾の中から生まれた主人公猪子廉太郎の思想は、部落民が差別に抗議するために立ち上がらないといけないというものだった。藤村は、理念的な存在である「部落民」は、主体形成の一つの結果であるということを提示しようとしたのではないか。

>>第6回:震災から20年―たかとりコミュニティーセンターの歩み

■講師:神田裕さん(たかとりコミュニティセンター理事長)
■日時:2015年3月14日(土)

【要旨のまとめ】
 カトリック鷹取教会(現・カトリックたかとり教会)は一九二七年につくられた。当初は韓国語を話せるフランス人宣教師がいたので韓国の人たちが多かったが、一九八〇年頃からベトナム人が来るようになった。ベトナム戦争で亡命した人たちが、姫路定住促進センターへ収容後、靴関連工場が多い長田に就労機会を求めて来たからだ。
 一九九五年一月一七日の阪神・淡路大震災直後、多くのベトナム人が近隣の中学校に避難した。寒さの中、石油ストーブで肉を焼いて食べていた。ベトナム人はたくましくて、したたかな人たちだ。その夜は私も彼らと一緒に外で寝た。とても心丈夫だった。
 一週間後、被災ベトナム人救援連絡会が立ち上がった。また、教会の中に臨時診療所ができ、全国のカトリック系病院から医師や看護師が交替で入ってくれた。そして、ボランティア活動の拠点として教会の敷地にたかとり救援基地が生まれた。
 韓国語のミニFM放送(FMヨボセヨ)を始めた民団の人たちから誘われたのをきっかけに、震災から三か月経った頃に鷹取教会の中に放送局をつくった。ベトナム語放送はFMユーメンと名付けた。その後、韓国語放送も教会から発信することになり、ヨボセヨのY(ワイ)とユーメンのY(ワイ)をとって、FMわぃわぃとなった。一九九六年一月一七日に正式認可を受けて、コミュニティFM放送局を立ち上げた。現在一〇言語の放送がある。東日本大震災時には臨時災害FM局立ち上げの支援も行った。臨時診療所は現在、NPO法人リーフグリーンとなり高齢者や障害者の支援を行っている。
 たかとり救援基地は二〇〇〇年にたかとりコミュニティセンターになった。資金面では頭を悩ませているが、人の交流の面では今も豊かで恵まれている。
 たかとりコミュニティセンターのキャッチフレーズは、「ゆるゆる多文化、いとをかし」。ゆるやかな中で違いがあるからおもしろいのだということをこれからも伝えていきたい。

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