本文へスキップ

〒650-0003 神戸市中央区山本通4-22-25兵庫人権会館2階

TEL.078-252-8280/FAX.078-252-8281

2013年度「人権歴史マップ」連続セミナー

>>第1回:近代神戸と生田川~新川部落・賀川豊彦・神戸水平社~

■講師:本郷浩二さん(世界人権問題研究センター客員研究員)
■日時:2013年5月11日(土)

【要旨のまとめ】
 一八六八年、神戸港の開港によって多くの外国人が渡来し、外国人居留地ができた。多くの日本人も仕事を求め神戸に集まってきた。居留地は地理的に生田川の水害を受けていたので、その被害を防ぐため生田川の付替えが行われた。これにより新しくできた流れが新生田川である。
 外国人たちは自分たちで消費する食肉を確保するため、居留地に屠畜場をつくった。その後日本人も屠畜業に参入するようになる。しかし、人家の近くに屠畜場があることが衛生上問題視され、県の規制により屠場は新生田川周辺地域(新川地区)に移転された。それに伴って、旧「えた」身分の人々とその子孫たちが移り住み、新川地区は被差別部落とみなされるようになった。一九〇二年、屠畜業の市営化により、新川地区の屠場が廃止され、就業機会が低下した。さらにコレラなどの伝染病の流行によって都市部に形成されたスラムが、「長屋裏屋建築規則」の適用範囲外に置かれた新川地区周辺に集中したことで、新川地区やその周辺地域の窮乏化は、ますます深刻なものとなった。
 このスラム問題に積極的に関わっていったのが賀川豊彦だった。賀川は新川地区において隣保事業(セツルメント)を開始し熱心な活動を行ったが、一方でスラム化の原因を部落民に求めるなど差別的な視点も持っていた。
 一九二二年には全国水平社が創立され、神戸においても同年一一月に兵庫県下最初の水平社がつくられた。神戸水平社は、岸本順作や前田平一など兵庫県水平運動の指導者を多く輩出した。
生田川周辺の地域は、まさに神戸で最初に人権問題が発生した地域であり、だからこそそれを何とか解決しようする様々な取り組みが最終的に根づいた土地であった。


>>第2回:大輪田橋と神戸空襲戦没者慰霊碑―犠牲者を記録すること

■講師:中田政子さん(神戸空襲を記録する会代表)
■日時:2013年7月13日(土)

【要旨のまとめ】
 一九四四年八月、マリアナ諸島がアメリカ軍に占領され飛行場がつくられると、B29による日本への空襲は熾烈になった。神戸も幾度とない空襲を受けたが、特に一九四五年三月一七日の夜間焼夷弾空襲、川西航空機甲南製作所をねらった同年五月一一日の空襲、火垂るの墓で描かれる同年六月五日の空襲では多くの人たちが命を奪われた。空襲の犠牲者は一九五〇年の『復興誌』によれば、七四二三名と言われている。
 私の母親も三月一七日の空襲に遭い、兵庫運河にかかる大輪田橋に避難したが、爆風に煽られ、全身の皮膚がめくれるほどの大火傷をした。次の爆風で意識を失い、抱きかかえていたはずの一歳一〇か月の姉は吹き飛ばされてしまった。母親は重傷で病院に運ばれ助かったが、姉の遺体は見つけることができなかったという。遺骨すらあきらめなければならなかった世の中がどんなものなのか、私は想像もできなかった。
 姉を亡くしたとき、私は母親のお腹の中にいたこともあり「神戸空襲を記録する会」の手伝いをはじめ、代表になってからは戦跡ウォークや体験を話す取り組みなどを続けてきた。  また、空襲犠牲者の名簿を作成し、刻銘碑を建てるための協力を呼びかけ、神戸市から土地の提供を受けて、大倉山公園に刻銘碑が完成した。刻銘碑は八〇〇〇人分の名前を彫ることができる。現在、約一七五〇名の名前が彫られているが、碑に刻まれた名前のすべてに生きた命があったこと、残りの空白の部分にもたくさんの命があることを理解してもらいたい。人間は忘れる生きものだけれども、決して忘れてはいけない悲しみや失敗がある。人の命と平和の大切さを語り、再確認する場所になることを願ってやまない。


>>第3回:神戸電鉄 朝鮮人労働者モニュメント―神戸に残る朝鮮人の記録

■講師:飛田雄一さん(神戸学生・青年センター館長)
■日時:2013年9月7日(土)

【要旨のまとめ】
神戸電鉄敷設工事には、多くの朝鮮人労働者が従事した。険しい山間部で昼夜を問わず行われたため、多くの事故が起こった。特に一九二七年から三六年にかけての五回の事故では一三名の朝鮮人労働者が亡くなった。過酷な労働条件の改善を求めて、朝鮮人労働者がストライキを起こすこともあった。「神戸電鉄敷設工事朝鮮人犠牲者を調査し追悼する会」では、埋蔵許可証や新聞をもとに犠牲者を掘り起こし、遺族を訪ね追悼式に招いた。一九九六年に、会下山公園付近に金城実さん制作の「朝鮮人労働者のブロンズ像」を建立。
 一九三九年以降、多くの朝鮮人や中国人が強制連行され、神戸港で過酷な労働を強いられた。そのことを示す名簿が神戸市内の一五の企業に残っている。亡くなった朝鮮人、中国人、連合国軍捕虜を慰霊するため、二〇〇八年、「神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行を調査する会」は「神戸港 平和の碑」を建立した。


>>第4回:孫文と神戸ー神戸華僑の歴史と孫文

■講師:安井三吉さん(神戸大学名誉教授/孫文記念館理事)
■日時:2013年11月30日(土)

【要旨のまとめ】
 孫文にとっての日本は、亡命先でもあり革命運動の拠点でもあった。一九一三年の第二革命に失敗した際、日本に亡命し、諏訪山にあった常盤花壇別荘に滞在している。二〇一三年八月、「孫中山記念会」はその史実を顕彰するための「孫文先生 諏訪山潜居の地」の銘板を設置した。
 呉錦堂をはじめとする神戸華僑たちは孫文の革命事業を支援した。また、孫文は革命後の一九二四年には、兵庫県立神戸高等女学校講堂にて支援者や経済団体などを対象とした「大アジア主義」講演を行っている。
 孫文の存在は神戸の地では華僑・行政・経済界・市民を結びつけ、日中共生の交流を形づくる役割を担っており、これを「神戸モデル」と呼んでいる。日中関係が非常に緊迫しているが、経済面でも文化面でも相互依存関係にあるため、平和的・友好的に物事を進めてほしい。

■ミニフィールドワーク
 セミナー終了後、安井三吉さんの案内で、ミニフィールドワークを開催した。兵庫人権会館の近辺には、神戸華僑や孫文ゆかり地が点在している。今回は、「孫文先生 諏訪山潜居の地」の銘板や中華同文学校の外壁にある「孫文先生来訪之地」銘板、関帝廟、兵庫県庁一号館外壁の孫文「大アジア主義」講演跡地を見学した。

>>第5回:人・街・ながた震災資料室―震災から19年、復興への道のり

■講師:清水誠一さん(人・街・ながた震災資料室)
■日時:2014年1月11日(土)

【要旨のまとめ】
 地震発生直後、区役所に行く。あまりの被害の大きさに市や区の防災計画も役に立たなかったため、出勤できた他の職員と災害対策本部を設置した。避難所班、物資班、情報連絡班、遺体処理班などの班分けをして、独自の体制を整えた。
 避難所ではグループごとにリーダーを設定して、避難所内でのルールづくり、支援物資の配給方法など話し合った。失敗もしたが、それでも乗り越えていけたのは、市民のリーダーやボランティアとの信頼関係があったからだ。
 「人・街・ながた震災資料室」は、長田区役所職員有志で一九九七年に開設した。班ごとの体験をまとめた記録誌をはじめ、多くの資料を保存、整理している。これらの資料は長田の財産であり、将来の災害対策にも生かせる。

>>第6回:マッチ工場からケミカルシューズ へ―『靴の街ながた』形成史

■講師:堀内稔さん(むくげの会会員)
■日時:2014年3月8日(土)

【要旨のまとめ】
 神戸のマッチ産業は明治期に最盛期を迎えるが、外国製の安価なマッチの進出により急速に衰退した。代わって重要な地場産業として発達したのが、ゴム産業である。マッチ産業の工場施設や労働者は、ゴム産業に転向していく。これらの産業を支えていたのは、朝鮮人労働者や奄美大島からの移住者、被差別部落民たちで、劣悪な環境のなかで働くことを余儀なくされていた。
 戦後は、新しい化学製素材が登場し、時代のニーズにあったケミカルシューズが売り上げを伸ばした。最盛期には関連企業は八〇〇社にのぼり、ケミカルシューズ産業は長田を代表する産業となる。しかし、一九七〇年代のオイルショックで大打撃を受けた。さらに一九九五年の阪神・淡路大震災では下請けや関連企業が大きな被害を受け、困難な状況に追い打ちをかけた。現在では、「神戸シューズ」ブランドを展開するなど、ケミカルシューズ産業の復興と「靴の街ながた」の活性化をめざし、新たな取り組みが進められている。

info事務所情報

一般社団法人
ひょうご部落解放・人権研究所

〒650-0003
兵庫県神戸市中央区山本通4-22-25 兵庫人権会館2階
TEL.078-252-8280
FAX.078-252-8281