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コラム⑥部落差別が解消した社会とは?


 みなさんは、部落差別がない社会をどのようなものだと思われますか? もしかしたら、みなが部落問題を知らなくなることだと思っていませんか? もしくは、被差別部落がなくなること、そう思っていませんか?
  部落差別がない社会を共通理解しないでいると、部落問題学習の方法論で議論が大きくずれてしまう場合があります。上のような状態をめざすのであれば部落問題を学ぶことはかえって差別の存在を知らせることになるのですから、部落問題学習の必要性はありません。そうです、コラム「「寝た子を起こすな」論(コラム②参照)になってしまうのです。部落差別がない社会とはどのような状態なのか、きちんと整理することは学習を進めるうえでとても重要です。
 では、部落差別がない社会とはどのような社会を指すのでしょう? 他の人権課題を例に考えてみましょう。たとえば、障害者差別がない社会、女性差別がない社会とはどのような社会でしょうか? みなが障害者問題を理解することにより障害者に対する差別や不平等が克服された社会、みなが女性問題を理解することにより女性に対する差別や不平等が克服された社会、となるはずです。ということは、部落差別がない社会とは、みなが部落問題を理解することにより部落出身者に対する差別や不平等が克服された社会となります。けっして部落問題を知らなくなること、ましてや被差別部落がなくなることであるはずがないのです。なくさなくてはならないのは差別であって、差別されてきた地域や人々ではありません。
 そうであるにもかかわらず、被差別部落は差別を前提として存在していることから、部落問題を学ぶことは差別を拡大することにつながり、差別をなくすためには地域や共同体そのものをなくす必要がある、そう考える人が少なくないのです。しかしながらⅢ章の歴史編でも明らかにしているように、部落は単に差別される存在として残されてきたのではなく、とくに水平社創立以降は差別された歴史や経験をもとに差別のない社会という新たな地平を切り開こうとしてきました。現在も、あらゆる人権課題の克服に向けて活動している部落や部落出身者がたくさん存在します。部落には積極的な存在意義があるのです。
 みなが部落問題を知ることなく差別がない(ように見える)社会と、みなが部落問題を理解したうえで差別を克服した社会、どちらがより豊かでしょう。人権が尊重される社会は、どちらでしょうか。部落問題を理解して差別を克服しようとする社会は、あらゆる人権課題の解決をめざす社会につながっています。

宮前千雅子