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コラム④「差別をしない」教育ではなく、「差別をなくす」教育を

 若い人たちだけではないのかもしれませんが、部落問題の話をするとよく「私は部落差別をしない」「部落差別を許さない」と言われます。学校教育や社会教育で「人権を大切に、人権の尊重される社会に」、あるいは、「差別はしてはいけない」などを学ばれてきた結果であり、成果といえます。そして、そこで行われている学習・教育は「差別はしてはいけない」「差別をしない」ことを学ぶことではなかったでしょうか。本当にそれだけでいいのでしょうか。少し、考えてみましょう。
 「差別をしない」というなかに、差別の現場(特に差別発言がされている)に出合ったとき、「差別をしない」は、「そのことに関わらない」も含まれていませんか。いままでに「私は、差別発言をしていない。私は、関わっていない」と傍観者になり、第三者的な対応をしたことはなかったですか。確かに現象面として、直接差別発言に賛同するような行動や発言をしてはいません。見て見ぬふり、無視をしていたのだと思います。これは「私は、一緒に差別をしない」で止まってしまっていることになりませんか。よく考えてみると、確かに差別はしていないのですが、差別を「許している」ことにならないでしょうか。「差別発言」を無視することは、差別が行われていることを認めることにつながり、その結果「差別をした」人と同じ立場に立っていることになってしまいます。
 私たちは、差別をなくしたい、そして差別のない社会を望んでいます。そうすると、「差別をしない」と黙って見ているだけでは、差別はなくならないということです。なぜなら、いまここに差別が生きているからです。差別をしないだけでなく、一歩進んで「差別をなくす」行動をしなければ、いまある差別はなくならないのです。
 では、部落差別をなくすためには何が必要でしょう。私は多くの人から、「私は、部落差別を許しません。しません」と心強い言葉をよく聞きます。そのとき、こんなことを聞きます。「いま起こっている、部落差別事象を知っていますか」「部落、部落差別って何ですか」。すると、ほとんどの人が「よくわからない」、また「いまもまだ部落差別があるのですか」と言われます。不思議なことですね。「部落差別がよくわからない、いま、どんな差別事象が起こっているのか知らない」にもかかわらず、「部落差別は許しません。しません」と言うのです。ここには、言葉としての「部落差別」を知っていて「部落差別はいけない」ということだけ学んできた結果が表れていると思えます。
 「差別をしない」教育だけでは、教条的に言葉として「差別はいけない、差別をしない」と教え、学んで、事足りていると思って終わってしまわないでしょうか。
 「差別をなくす」教育には、部落差別とは何か、部落とは何か、いま部落差別はどうなっているのかなどをしっかり学び行動することが大切です。私たちは、差別のない社会、すべての人の人権が尊重される社会、そして安心して安全に、心豊かに暮らせる社会をめざしています。そのためには、「差別をしない」教育でとどまるのではなくて、「差別をなくす」行動の伴う教育を一緒に取り組んでいかなければならないのです。

細田勉