部落差別の解決方法としてあげられるものには、政策的、経済的取り組みや、人権尊重の意識を高めるための教育・啓発が必要だとする積極的なものもあれば、問題を含むものも少なくありません。
その代表的なものが「部落の人たちが、一定の地域にかたまって生活しないで、分散して住むようにすればいいという「部落分散論」と、「部落問題のことは口に出さず、そっとしておけば、差別は自然になくなる」「寝た子を起こすな」論です。
もしこの考え方が正しければ、部落問題の解決の方法は、「部落のことは考えない、意識しないようにする」「学校やメディアが部落問題に関する情報を提供しない」ということになります。
この考え方は「部落差別が存在している」ということが前提になるという矛盾をはらんでいます。差別がないのなら、「そっとしておく・意識しないようにする」必要はないからです。
いまなお存在している部落差別を「教えない、知らせない」とは、どういうことでしょうか。簡単にいえば、「事実を隠せ」ということになります。「事実があっても、教えない、知らせない」ということが部落差別をなくす方法である……なんともおかしなことになってしまいます。
一般的に、知識を獲得することは「喜び」であり、ワクワクする経験であるはずです。なのに、部落問題については、知ったら変に意識してしまうから、知らないほうがいい、教えないほうがいいと考えてしまうのはなぜでしょうか。ある人たちを差別し、排除しようとする心理があって、そこに部落問題が入ってくると、差別する側に回ってしまうかもしれない自分に無意識に気づいているのかもしれません。
差別や偏見に対して、抗しうる科学的認識と態度をもち合わせているなら、部落問題が入ってきても、「それはおかしい」と批判できるでしょうし、「変に意識してしまう」こともないはずです。「そっとしておけばなくなる」というなら、たとえば「水平社」もなく、解放運動もなく、同和対策事業も行われず、同和教育も一切なかったら、もっと早く部落差別がなくなっていたということになります。
「寝た子を起こすな」という考え方は、このようにさまざまな矛盾を含みながら、いままで受け継がれ、その結果、部落差別を直視しないことによって、差別をないことにしてしまい、問題が放置されてしまうという状況をつくりだしています。
一見、「部落差別の解決法」という装いをもった「寝た子を起こすな」論や「部落はコワイ」「血筋が違う」などの偏見を打破しうる知識、態度、スキルを獲得するには、どのような内容をどんなふうに教えていくのか、学んでいくのかが問われなければならないはずです。
現実を見ない、語らない、聞きたくないというではなく、いま、私の生きているこの部落問題をめぐる状況にたどり着くまでに、人々のどのような取り組みがあったのか、そして、どうしてまだ部落差別が解消されていないのか、何が課題なのか……。そのような積極的な「問い」をもつことを大切にしたいものです。
井上浩義