本文へスキップ

コラム①部落差別はもうなくなっている?


 「寝た子を起こすな」と同じように、これもよく聞かれる意見です。 「なくなっている」というならば、いつなくなったのでしょうか。それは、国全体から? それともあなたの町から?
 ところで、部落差別と聞いたとき、具体的にどのようなことがらがイメージされているのでしょうか。
 部落出身者にぶつけられる直接的な差別行為、たとえば、あからさまに結婚差別をするとか、就職の際に排除するとか、賤称語を用いる…などでしょうか。

  ある高校生対象の意識調査では、
○自分の周りではあまり人権問題を見かけないからかもしれないけれど、部落差別がこの日本でいまだに起こっていることが信じられません。
○かつて部落だった地域はあるけど、私は差別を見たことがありません。部落差別があると言われても、いまいちピンときません。
などの回答がありました。おそらくこのような回答をした高校生にとって、部落差別とは極めて露骨なものとして、とらえられているのでしょう。そうだとするなら、確かに見えないものなのかもしれません。
  自分が直接見ることのできないもの、過去のものは「ないもの」になってしまいがちです。
 しかし、部落差別は「見えるもの」だけではないのです。
 右上のグラフは、α市の学力状況調査の結果です。5教科(国数社理英)、3,000人を対象にしたものです。全市平均を100という指数に換算し、黒線が部落の生徒たち、灰色線が同じ学校に通っている部落外の生徒たちです。外川正明さんは「高校進学率はほとんど格差のない状態になってきているのに、実質的な学力についてはこの20年間で解消していない……」と分析しています。この格差の存在は差別でしょうか。部落差別は社会構造の中に、生活実態のなかに存在するのです。
 最近では、インターネット上で『部落地名総鑑』がオークション出品されたり、自由にダウンロードできたりするような事件が起きています。インターネットで「部落」で検索をかけてみると、どんな情報にヒットするでしょうか。インターネット上にはいまも、差別的な書き込みが絶えないのです。容易には削除されず、蔓延しているといっていいでしょう。これで、部落差別はもうなくなっているといえるでしょうか。
 日常生活で頻繁に出合うことがないものであっても、それは「ない」ものではありません。意識的に見ようとする営みが求められているのです。

井上浩義